日野原先生とフランクル

人は 誰でも幸せになる 権利がある

この言葉は キレイごとのフレーズかと思ってきました。

でも 本当は 人は 誰でも 幸せになる 能力を持っている なのですね😃🎵


昔 買った日野原先生の本を 読み返して 涙が出てきました。
感動するのです。

以前は そんなものか そうなんだろうと
何か もっと 凄いことを 知りたくて 読みたくて でも そんなことなら 知ってる みたいに 頭で読んでいました。

それが 今は 実感出来るのです。書いてあることの リアルさに。

何か 最近 張りというものが無かった。
自分の 老化というものを 無視出来なくなってきたことも ある。


それが アウシュビッツ収容所の記録を書かれた 夜と霧の作者 フランクルの言葉で

収容所に入れられたことは 不幸だったが なおも私は幸せだった

という言葉の紹介

そう❓そうなの❓❓

人間の 可能性を 示されたような気がしました。


社会的なものも 妻子も 人間としての生きる権利さえ取り上げられた中で 彼は この事実を 伝える義務があると 生きる目標を持ったまでは 知っていましたが

残された言葉が 怨みつらみや愚痴ではなく

自分を 幸せだったと言っている❗️

何て凄いんだろう 幸せというものは❗️

条件じゃない! 本当に 本当に結果❗️


では どういう結果❓

幸せは けっして目標ではないし 目標であってもならないし さらに 目標であることも できません。
それは 結果に すぎないのです。


という 言葉も 残されているそうです。
日野原先生は この言葉が 一番しっくり馴染むと 書かれていました。


そうか! あれほどの極限状態に追い込まれた彼を ささえたのが この事実を後世に残すことが 自分の 使命だと思えたその心のスタンスならば

それを 全うしたことの 幸せ感では なかったか❓

幸せは 目標に出来ないけれど 自分の意志では どうにもならないけど

使命は 自分の意志で持ち 目標にすることも出来る。
使命と いうと大げさですが 日野原先生は

希望とおっしゃっていました。
きぼうは どんなに ささやかでも その人の心をあかるくするのに 充分だと!

それを やってる? って反省した今日でした。